よく「プライドを捨てろ捨てろ」というけれど
- もはや定型句のような「プライドを捨てろ」という言葉が刺さって痛い時がある
- プライドという言葉を紐解く
- むしろプライドは持つべきなのではないだろうか
- プライドは育てるもの
- もはや定型句のような「プライドを捨てろ」という言葉が刺さって痛い時がある
今日もまたtwitterのスクロール中に出会う「プライドを捨てろ」という言葉。友人が言っていた「もう噛まれすぎて味が出ないスルメのような使い古された言葉」にまさしくピッタリだと思った。
自己啓発やビジネスアカウントが良く発している「プライドを捨てろ」。見かけるたびに少し胸がチクリとする。そうした時に内省しているのは対人関係のささいな衝突や、疎遠感というコミュニケーションにおける負の感情だ。上手く行かなかったことの全ては自分に原因があるのかもしれない、その原因たるや自己主張というものを示そうとしたからだ。そうか、だから自身のアイデンティティの一つであるプライドが間違っていると言われると、「なるほどそうかも」と腹落ちしつつ、胃のどこかがキリキリとなる。
しかし、風の時代と言われる今、個のアイデンティティや主張や自己表現もろもろは諸手を上げて称賛される風潮が出てきているはずなのに。プライドを捨てろとはどういうことなのだろうか。 - プライドという言葉を紐解く
プライドを辞書で調べると☟のようにある
〘名〙 (pride) 自分の才能や個性、また、業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持。また、そのために品位ある態度をくずすまいとすること。誇り。自尊心。自負心。矜持(きょうじ)
~精選版 日本国語大辞典 コトバンク~
誇りや自尊心や矜持、あれ?全くもってネガティブな表現でない。特に自尊心は現代の日本人にもっともっと必要な心もちの一つだと思う。となると、プライドという言葉には、上記国語辞典的ポジティブな意味合いと、捨てろと言われるほどのネガティブな意味合いがあるらしい。
キリスト教の七つの大罪の一つに「傲慢=おごりたかぶって人を見くだすこと」とうものがある。これは英訳でprideと表現される(いや、むしろprideが傲慢と和訳されているのだけれど)。ははーん、なるほど。この傲慢がネガティブなプライドの招待なのだな。
再び件の国語辞典によると〘名〙 (形動) おごりたかぶって、人をあなどること。人をみくだして礼儀を欠くこと。また、そのさま。
自信のおごりから、人を見下して礼儀を欠く。あ、こりゃさすがにダメな奴だし、嫌いだな。なるほど、ネガティブなプライド(傲慢)は対人関係のスキルと心持を指すようです。
同じプライドという言葉でも、意味合いと役割が全然違う。 - むしろプライドは持つべきなのではないだろうか
しかし、元のtwitterでよく見かける「プライドを捨てろ」という言葉は、文脈としては前者の"誇り"や"自尊心"というものを捨てろという意味合いをよく見かける。
ここで想像力を働かせてみると、自尊心が高い=自分のやり方や考え方を信望している⇒(つまり)他人の意見に耳を傾けない、素直さが足りなくなって、結果的に成長が得られない。というフローを言っているに過ぎない。
でもですよ、本当に多くの日本人が自尊心が低くて悩んでいるというのに、そこに追い打ちをかけるように、「自尊心を捨てろ」なんて、余りにも酷だと思うわけです。
きっと自尊心が邪魔だった時代は、工場の組み立てラインのような没個性こそが生産性に直結する仕事環境だと思う。でも、この不確実な時代においては、個性を発揮しながら紆余曲折する波に乗る臨機応変さがないと辛い。そのためには、自意識としてのポジティブなプライドというものがあった方がいいに決まってる。 - プライドは育てるもの
ポジティブなプライドは、はたまた自己肯定感と置き換えられもしよう。様々な選択や経験、努力などによって徐々に育まれていくアレだ。
これからの時代は「好きなことじゃないと成果が出せない」ほどに、各人の想いがつまった仕事が重宝される時代へと深化を遂げていく。これからも意識的にプライドを育んて行くことで、もっともっと時代に必要とされる人間になるだろうし、人生そのものが楽しくなっていくに違いない。