覚悟を決めるということへの恐怖感

突然だが、僕の自我は背中にいると思う。肩甲骨の上の当り、首の骨の始まりがあるくらいの位置に手のひら大のサイズでいつも僕の気分を評価している。「嫌だな。不安だな。」という時はその自我が鬱屈として言いようもない気持ち悪さを僕に伝えてくれる。一方で気分爽快、今日も頑張れるぞなんて日は、その部分に心地良い風が吹き続けているかのような清々しさに包まれる。

僕はこいつをウニヒピリと呼んでいる。

このウニヒピリさんが恐れおののく事態に遭遇した。現在参加しているFBのコミュニティ(オンラインで定例会や勉強会をしているとても前向きな集合体)にて、決断プレゼンをしましょう、という展開になったことだ。今後の自分が理想に近づくために、決断し覚悟を決め、そしてそれを表明する。


このコミュニティは参加者全員がより良い人生に向かうため、各々の目標達成を信条に掲げている。目標とは「どうしてもやりたいこと」なわけで、むしろ不達になどなり得ないという訳である。自分の心に素直になり、その心の真なる欲求を具現化すること。そしてその欲求を満たすためには、リソースを全集中する必要があり、これまでとこれからで時間やお金や能力や人間関係そうしたもろもろを整理し、目標達成に心血注ぐことが必要になってくる。

「だってそれやりたいことなんでしょ?」

本当に達成したい目標のためには、優先順位が低いものにリソースを使っていては達成できるものもできなくなってしまう。つまり、今までの私とは決別をしなければいけないのだ。

こうした現状との決別が非常に怖い、と思った。現状のまま死んでしまうのは嫌だと思っているにも関わらず、納得いっていない現状であるにも関わらず、その先がどうなるか分からないという心理的な便りどころを失ってしまうということに、とてつもない恐怖感を感じてしまった。こんなに納得いっていない現状であるが、明日も今日と似たような日を過ごせるだろうという安心感に頼りどころを感じてしまう。僕のウニヒピリさんも全力で警鐘を鳴らして、背中が重くだるく感じてしまう。


こんなにも強い現状維持の声、気持ちがめげ「やっぱり辞めた方が楽になるんじゃないか」との囁き声が聞こえる。それほど、このコミュニティの中でアイデンティティを確立し続けることにステータスもしくは、未来の自分への期待を感じているのだ。決断し、投げ出すなんてことをしたくないから、決断もしない。そんな思考が頭をよぎってしまった。

 

ふと、ここ数週間で僕が大事にしてきたある理想の光景を目に浮かべる。

”大勢の観衆の声、そこの主人公たる自分、タキシード姿、髪も揃えている。普段人前で緊張しがちな僕がゆったりと落ち着いてとある主張をする。観客席には最愛の妻、家族そして仲間たちがが喜びの表情を浮かべている。会場内のしんとした空気の中、光に照らし出された自分。ユニークな話題から会場の笑いを取りながら始める”

そうした理想的な僕は、些末なこの現状維持を選ぶだろうか。変化の先にしかその理想はあり得ないのは明確だ。僕の現状の意識を理想の自分だったらどうするかへ持っていく。

すると、僕のウニヒピリは落ち着きを取り戻し、そして冷静さを僕にもたらしてくれるようになる。

 

僕は過去に心が伴わない決断をし、失敗をしている。何か自分が変われるんじゃないかと思い、半泣きで「えいやー」と転職を決めたことだ。同じように僕のウニヒピリは警鐘をガンガン鳴らしていて、それはうすら寒くなるほどだったし、見せかけの努力をがんばったせいで1か月で体重が10キロほど落ちた。しかし、そこで感じるプレッシャーにいつまで経っても慣れることができず、感じたストレスのはけ口として砂糖に逃げいていた。砂糖をそのまま食べることで安堵しているほどの状態だった。気づいたら体重は+10キロほどに丸丸となっていた。
この出来事は今の僕につながっているので、人生稀有なめぐりあわせだなとは思うものの肯定的に捉えることはできている。

この時に強く感じた、覚悟を決めるという行為そしてそれを決めた自分を裏切ってしまったことへの後悔。現状の僕は、この体験から逃れるべく覚悟を決めるという事が怖くなってしまっていたのだ。

 

しかし、だ。

 

今は状況が全く違う。現状の自分を変えたいという想いは同じかもしれないけれど、心から理想の自分を求めている。そこに近づくためには、変化を起こさないといけない。

この変化に向かって、覚悟を決めよう、そして決断プレゼンへ臨もう。
理想の僕の立ち位置からは、ウニヒピリも僕のことを応援してくれている。

引き寄せの法則がスピリチュアルじゃなかったって話

  1. 引き寄せの法則」っていうと、「あ、この人アレだ」ってなっちゃうよね
  2. 僕も含めて多くの人が変わりたいと思ってる
  3. 習慣化の壁、現状維持機能の破壊力
  4. 現状をどこに置くかは自分次第
  5. 引き寄せの法則の論理的な解釈
  1. 引き寄せの法則」っていうと、「あ、この人アレだ」ってなっちゃうよね
    先日書店に久しぶりに行ったら、ビジネス書関連の棚がめちゃめちゃ狭くなってて非常にがっかりした。ビジネス書に限らずだけど、棚の端からタイトルを読みながら移動しての脳内の高揚感が好きだし、「あ!!この本は」というセレンデピティに出会ってから自宅に帰って読みふけって「やっぱりいい本に巡り合ってしまった!」という感動的な体験は数多い。
    ただ、これまではスピリチュアル系の棚はすっかり飛ばしていた。否定はしないけど、抽象度が高すぎてなんかしっくり来たためしがないからだ。おまけに、何かいいことがあったんだよーと話した友人が「それは引き寄せの法則が働いてるね」という、まとめ方がしっくりこなかった。なんというか、偶然に頼ってるような危うさが嫌だったようにも思う。でも、最近の学びで「あぁ、引き寄せの法則ってそういうことなのか」と妙に合点がいったので記録しておこうと思うし、誰かのきっかけになると嬉しいと思っている。
  2. 僕も含めて多くの人が変わりたいと思ってる
    言わずもがな、本屋の棚巡りをしている自分というのは成長や変化を求めている行動の一環である。人生の軸を確立できている人たちからすると、「そんなことに時間を費やしている場合か、行動しろ!」なんて声ばかりだが、悩める僕たちにとっては、行動のもとになる情熱やら自己肯定感やら、ハウツーであったりが大事なんだ。これは分ってほしいし、僕はこれからも人に対してそういう理解は持ち続けたい。世の中の自己啓発書が手を変え品を変え、毎年ベストセラーが出るのは、やはり変わりたいと思っている人が多いことを如実に物語っている。
    でも、(過去の)僕も含めて「変りたいけど、変われないんだ。良い習慣は勉強して知ってるよ、でも、それを続けるには気分が日によって変わるし、コンディションに引っ張られたり。そして目標を決めたときのモチベーションが続かないんだ。」という状態の人は依然多いと思う。

  3. 習慣化の壁、現状維持機能の破壊力
    恐らく、「人生を変えるには〇〇だけ」みたいなYouTube動画にふけってしまっている人も多いだろう。見るほどに、「あぁそうか、ココを変えればいいのか、やってみよう」で三日坊主で終わって、次の動画がお勧めする方法を試して、また辞めて。インプットだけ多くてアウトプットにつながらないので、頭でっかちで情報ため過ぎゆえの「何していいか分からない状態」になっている人も多いはずだ。かくゆう僕もそんな感じだった。最近は、人生は習慣が全て、ということで自身の意思に頼らない外部環境から習慣づくりをやろう、という文脈がふえてきている。これもいいんだけど、僕らの意思の弱さなんてのはスーパークリエイティブで、めんどくさかったらやらない理由なんていくらでも思いつき、それを根拠に新しい習慣化から逃げている。
    そしてしばらく経って、また同じ動画をみて今度こそは!と思うけれどやはり続かない。「何なんだおれは」と自己肯定感も下がっていく。

    「そりゃそーだよ、人はそもそも現状維持したいんだから。ある瞬間に変化を!て思っても、しばらく経ったら現状に戻りたいに決まってる。少なくとも現状が頭のどっかでは最悪だと思ってても、”なんとかなっている”んだから。なんとかなっている内は、脳は変化を起こしたくないし、変化するってことが含む不安やストレスから避けたいんだから。それが脳の仕組み」という、コーチの言葉に出会うことができた。いやはや、本当に感謝の出会い。

  4. 現状をどこに置くかは自分次第
    そういう脳の仕組みがあるから、人は変われないかと言うとそうではない。ビジュアライゼーションや、アファメーション、などのキーワードが提唱する「理想の自分を、標準状態だと認識する」ということが肝要なのだ。
    理想の自分は何をしていて、何をみて、何を聞き、どんな匂い、どんな味、五感全ての臨場感と、その場の雰囲気をリアリティを持って想像すること。そこまで理想を思い描けたら、脳が「あれ?標準状態の自分ってこの理想の方だよね?」と認識しだすので、目の前が一変するよという事である。
    僕らが普段見聞きして理解している世界というのは現状の延長線上でしかない、昨日まで怒っていたことには怒り、だるいと思う事はだるい。それを決めているのは現在の自分。でも、変わりたいと思っているという矛盾があるので、この矛盾を解放してあげるのだ。理想の自分は同じシチュエーションに対峙したとして、「何を思い、どう判断するのか」。この思考ができるようになれば、今まで見えなかったものに焦点をあて、そのつながりを吟味し、自然と理想状態に近づいていく。理想状態に対して現状維持機能のフィードバックをかけるのだ。

  5. 引き寄せの法則の論理的な解釈
    実は世界には無数のチャンスときっかけが転がりまくっている。ただそれは、砂漠の中で金の粒を探すようなことなのかもしれない。日常の精神的な喧噪や、人間関係、SNSなどの情報にあてられ、それらすべてが砂漠化してしまい、自分に幸運をもたらす金の粒に気づけない。しかし、理想状態を現状維持のフィードバックをかけると、砂漠が取り除かれ金の粒が視界に移ってくるようになる。これまで気づかなかった情報にアクセスし、それらが紡ぐ幸運のきっかけを自分でつかみに行けるようになる。こうした正の循環が生れてくることこそが、「引き寄せの法則」なるものなのだと思う。
    肝要なのは、自分がどうありたいかということに常に意識とアンテナを張ることなのだと思う。

声なき値上げの足音

  1. 建設関係は資材の価格上昇の波
  2. セブンイレブンのからあげ棒
  3. ほっともっとのかつ丼
  4. 100円(だった)パックのお茶

 

  1. 建設関係は資材の価格上昇の波
    タナオの本業は建設関係の資材販売の営業です。昨年末から中国でのコロナの回復ショックということで需要が高まり、鉄関係の値段が急激に上がってきてました。下がることなく、更に年末にかけての価格が上がることが予想されます。同時に、車を運転される方もお気づきの様にガソリンの値段が今秋から上昇してます。これはつまり、石油関連製品も軒並み価格上昇という流れで、今の時期は例年になく値段が上がりまくってました。
    これってつまり、建設関係の初期投資の費用が上昇するので、事業用建築の施主さん方の事業計画の刷新が求められるということです。

    「なんだか、これがあらゆる商品の物価上昇につながったら嫌だなー」
    なんてことをヒシヒシと感じてました。

    そして、先日お昼ご飯を買いに行ったセブンイレブンでちょっとびっくりする事態が。

  2. セブンイレブンのからあげ棒
    最近ロカボを意識した食事をしてまして、ロカボって本当に何食べていいか分からなくなりますね。軒並み糖(米、砂糖、小麦粉)が使われているものばかり。苦肉の策で、この日のお昼ご飯はウイダーインゼリーとからあげ棒にすることにしました。ショーウインドウ越しに見ためちゃめちゃ久しぶりのからあげ棒(学生の頃は狂ったように食べてました)にどことなく違和感を覚えます。
    いざ、営業車に戻ってパクっと一つ頬張る。

    「え、ちっさ」

    懐かしいからあげ棒はからあげ棒じゃなくなってる、と感じるほどに小さくなってました。そして何だか硬くて損した気分。もどかしい気持ちを持ちつつ、それでもロカボ中の僕には、満たされるだけの油感がありました。(ロカボロカボ言ってるけど、何か間違っている気もする)

  3. ほっともっとのかつ丼
    そんなもどかしさを忘れ去っていた週末。父から「家の用事を手伝って欲しいので、昼前に弁当買って集合」とのおねだりがあり、ほっともっとで弁当チョイスして実家に向かいました。
    家の用事は外仕事だったけれど、空模様があいにくのお天気。さっさと昼飯食べて、作業をしようということで、かつ丼をパクつきます。

    「え、肉うっす」

    これまた久しぶりに食べた、ほっともっとのかつ丼だったけれど。お肉の薄さが驚愕でした。値段はキャンペーン中という事で安かったのだけれど、僕の中のほっともっと美味しさの安定感を気持ちよく裏切ってくれました。トホホ

  4. 100円(だった)パックのお茶
    そして今日は妻より「何か飲み物かってきてーん」というおねだりにより、コンビニの店内を徘徊してました。ふらーっと眺めていたパックの1リットルお茶。そうそうこの100円のヤツ。...じゃない。
    単価が107円になってて、それの税込み表示が118円。
    最初の107という表記が税込みだと思ってたけど、単価だった。恐らく、税込表示の流れに合わせて価格を上昇させていたのだろうけれど。

    なんだかどれもこれも、既に声なき値上げを実行してて、ちょっとぞっとしました。そして、冒頭にあるように、更なる価格上昇が予想されます。

    インフレになるなら収入もガツンと上がるように、世間様も僕ももっと頑張ろうと思うのでした

その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ

  1. 多くの人が惹かれるコンテンツには、惹かれるだけの世界観がある
  2. HUNTER×HUNTERハマったよね
  3. その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ
  4. 自己理解にも自分が何に対して怒るのかを理解する
  5. 俯瞰することで感情の支配から逃れる

 

  1. 多くの人が惹かれるコンテンツには、惹かれるだけの世界観がある

コンテンツって書くとなんか知ってる風でカッコいいよね。という理由で、漫画とか小説とかドラマとかちゃんとそう言えばいいのに、コンテンツって言っちゃうやつらいるよね。どうも、その一人のタナオです。
 小さい時から漫画っ子で、クレヨンしんちゃんからドラえもん名探偵コナンるろ剣などなど、漫画の世界にどっぷりと漬かるのが好きだった。そうした名作の数々は僕たちが生きる現実世界とは異なる、キャラクターや物心世界にのめり込むに足る完全な世界を創り出している。概ねカッコイイキャラはカッコいいし、面白い奴らは面白く、そのキャラ設定というものに矛盾がなくブレがない。僕らが生きる現実世界は、日毎時間ごとに精神状態なんて変化していて、漫画の世界以上に僕らの精神世界なんてものは混沌としている。だからこそ、漫画の世界のようなキャラ設定から脱することがほとんどない、安定の世界観というものにどこか安心感を覚えるのかもしれない。

  1. HUNTER×HUNTERハマったよね

大人になっても、純粋な息抜きとして漫画を読むことはまだまだ多い。最近は妻と一緒にHUNTER×HUNTERを一気見して、最新刊まで情報がアップデートされた。富樫ワールドの混沌としつつも、精緻な構造を改めて見ると感動も一入である。ただ、もう念を使うことはできないとちゃんと気づいてるぐらいには大人になってしまった。改めて見てみると、ゴンのやっかいなほどの信念の強さと、殺し屋キルアの仲間に対する想いと行動など、一般的でないキャラ設定に改めて感心したものだった。そして、名著には名言が散りばめられている。

2.その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ

ちょい悪オヤジ風レオリオと美青年クラピカの衝突の際に、ゴンが言い放った言葉「その人を知りたければ、その人が何に対して怒りを感じるかを知れ」そして二人の様子をじっと見つめ理解に徹する。10代のころに見たこのシーンは「ほう、そんなものか」とただ印象に残っていたが、年を経て改めて見ると凄く腹落ちがした。
 最近同じようなフレーズを目にしたのが、八木仁平さんの「やりたいことの見つけ方」の中に出てくる「イラっとすること」という項目だ。自己理解のために、イラっとくるポイントに焦点を充てる。これは、自分のこだわりとは何かを理解するとっかかりとなるのだ。最近自分が怒りを覚えたこと、それらを分析することで見えてくる、裏側に潜む自己のこだわりや性分というもの。それらが自己理解を助けてくれるというのだ。

  1. 最近怒りを覚えたこと

僕の場合は自分自身の中でここが嫌だなぁと思っていることを、指摘されるとそれが怒りに変る。と、同時に落ち込んでもいる。例えば、眼前のタスク処理に振り回されるがあまりに、身の回りの整理が全く追いついていないことが自分が感じている嫌なこと且つ改善したいこと(でもやっていない)。そうした部分を指摘されると、「分かってるけどそんな時間取れないんだ!そっちは今優先順位じゃない」なんて、怒りを持ってしまう。おおむねこういう時は気持ちに余裕がなく、周囲に怒りが漏れるような対応になってしまう。十中八九自分に改善点があるものの、それをアテツケガマシク指摘してくる他人もどうかとも思う。
 この事象を前向きにとらえると、理想と現実のギャップに嘆いている自分にも気づく。こう見ると凄くポジティブだけど、ここでの理想が曖昧でかつ本当に自分に向き合えている理想なのかと言えば、そうでないことにも気づいた。パーフェクトヒューマンのような理想をただ闇雲に追おうとしているに過ぎなかったのだ。現状の立ち位置、自分の得手不得手を全く無視した上で、なんとなく良さそうな理想を追い求めてしまっていた。僕らには限界があり、時間やお金や物質など有限な世界に生きていて、優先順位をつけた理想を追い求めなければ成長なんてものがあり得ない。一点突破、多面展開という、計画を持たなければいけなかった。そしてその一歩は現状理解、つまり苦手や嫌いなものを受け入れた上でそれらをネガティブな感情に触れさせることなく全体として昇華させていく方法を考え、行動し、そしてまた振り返る。それらが僕をより成長させて、具体な理想へと近づいていけるはずだ。

  1. 俯瞰することで感情の支配から逃れる
    また、負の感情に出くわしたときのおすすめの方法は、長くゆったりとした深呼吸をしつつ、負の感情が身体にもたらしている結果、今の記憶を呼び起こしどの部分が自分にとってネガティブに成りうるのか、を機械的に処理をする。つまり、一歩引いた状態で自身を見つめてみるのだ。これが俯瞰するという事だと思う。頭に血が上っても、血流が増えてるのかなとか、どうしようもなく凹んだ時には、その凹みが体にもたらす影響などを考える。そうすることで、眼前の負の感情がやや改善されることに気づくだろう。

地獄への道は善意で敷き詰められている

  1. 人の優しさにありがたいと思いつつも、違和感の足音
  2. 脳内に降臨した諺
  3. 善意に従うのは素直なようで、他人軸に生きている
  4. アドバイスは消化して、自身の意思決定に落とし込む
  1. 人の優しさにありがたいと思いつつも、違和感の足音
    タナオさんの日中の仕事は、建設系の資材販売という営業職です。この業界に入って3年目、いろいろと経験を積ませてもらってますが、一重に建設といっても土木や建築なんかはまったく分野が違うので、まだまだ未知のことばかりです。人に恵まれているおかげもあって、会社の既存客だけでなく友人知人が「こういうの扱える?」と声をかけてくれます。ありがたい。
    元来器用貧乏の気質があるタナオさんですので、聞かれれば自分が分からないことなら調べてでも必ず何かしらの回答をするように心がけています。でも、例えば千円ぐらいの商品を流通元から調べて、その特徴を掴み、お客様に見積作成して説明をさせていただく事も多いのですが、「んー、頑張っているけどこれは割に合わない...」という事もしばしば。皆さんの優しさで声をかけてもらってるはずなのに、なんだか手元の処理タスクばかり増えて、売り上げが伸びないことに違和感を感じ始めます。
    決め手は、お前のところから取ってやりたいから「値段をもっともっと下げて」というお言葉。指名してもらえるのはありがたい。ありがたい、けど、利益が出ずに苦しい一面も。

  2. 脳内に降臨した諺
    そんな時にふと脳内へ昔見聞きした諺が降ってきました。それがタイトルにもある「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉。ヨーロッパの諺だそうです。良かれと思った周囲の言葉やアドバイスが、当人の向かう先を必ずしも良くしない、むしろ地獄へと向かわせている。という意味合いです。そう、皆さんが良かれと思ってやってくれている善意。にも関わらず、そこに甘んじて全てを受け入れていては、自ずとその足の進行は良くない方向へ向かってしまう。まさに今の現状を表現しているようでした。

  3. 善意に従うのは素直なようで、他人軸に生きている
    こうした善意に対して、素直な方が損をするのかというと、必ずしもそうではないと思います。しかし、肝心かなめは、周囲の意見をきちんと自分ごとに置き換え、意思決定ができているかということ。そこの納得感は、自分軸で判断しているかとうことです。
    通常、周囲のアドバイスや助言は従ったほうが良いと思われがちです。実際人生の先輩なんかの助言は、経験に基づいているので正しい場合も多いでしょう。ただ、アドバイスを基にいざ行動に移してみるとどっかしらで躓くことばかりで、その時のネガティブな感情を持った時に「あの人がああ言ったのに!」と、恨めしく思うか、「あの助言を自分で決めて取り入れてみたけど、だめだったか」と思うかで意味合いが全く異なります。闇雲に周囲の善意を信頼してしまう事は、自分軸からかけ離れた行動だと思うのです。

  4. アドバイスは消化して、自身の意思決定に落とし込む
    営業職に関して言えば、売り上げがたつかそうでないかが成功の指標なのですが、こと自分の人生というものにおいては、成功の定義は人それぞれですね。なので、周囲の善意というものが自分自身の成功に対して前に進めてくれそうかを吟味して、意思決定に落しこむことが肝要だと思うのです。
    まわりの善意には心から感謝して、ただ行動指標への還元は自分で決める。

    よし、明日からこれやろう!

よく「プライドを捨てろ捨てろ」というけれど

  1. もはや定型句のような「プライドを捨てろ」という言葉が刺さって痛い時がある
  2. プライドという言葉を紐解く
  3. むしろプライドは持つべきなのではないだろうか
  4. プライドは育てるもの

 

  1. もはや定型句のような「プライドを捨てろ」という言葉が刺さって痛い時がある
    今日もまたtwitterのスクロール中に出会う「プライドを捨てろ」という言葉。友人が言っていた「もう噛まれすぎて味が出ないスルメのような使い古された言葉」にまさしくピッタリだと思った。
    自己啓発やビジネスアカウントが良く発している「プライドを捨てろ」。見かけるたびに少し胸がチクリとする。そうした時に内省しているのは対人関係のささいな衝突や、疎遠感というコミュニケーションにおける負の感情だ。上手く行かなかったことの全ては自分に原因があるのかもしれない、その原因たるや自己主張というものを示そうとしたからだ。そうか、だから自身のアイデンティティの一つであるプライドが間違っていると言われると、「なるほどそうかも」と腹落ちしつつ、胃のどこかがキリキリとなる。
    しかし、風の時代と言われる今、個のアイデンティティや主張や自己表現もろもろは諸手を上げて称賛される風潮が出てきているはずなのに。プライドを捨てろとはどういうことなのだろうか。

  2. プライドという言葉を紐解く
    プライドを辞書で調べると☟のようにある
    〘名〙 (pride) 自分の才能や個性、また、業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持。また、そのために品位ある態度をくずすまいとすること。誇り。自尊心。自負心。矜持(きょうじ)
    ~精選版 日本国語大辞典 コトバンク~
    誇りや自尊心や矜持、あれ?全くもってネガティブな表現でない。特に自尊心は現代の日本人にもっともっと必要な心もちの一つだと思う。となると、プライドという言葉には、上記国語辞典的ポジティブな意味合いと、捨てろと言われるほどのネガティブな意味合いがあるらしい。
    キリスト教七つの大罪の一つに「傲慢=おごりたかぶって人を見くだすこと」とうものがある。これは英訳でprideと表現される(いや、むしろprideが傲慢と和訳されているのだけれど)。ははーん、なるほど。この傲慢がネガティブなプライドの招待なのだな。
    再び件の国語辞典によると
    〘名〙 (形動) おごりたかぶって、人をあなどること。人をみくだして礼儀を欠くこと。また、そのさま。
    自信のおごりから、人を見下して礼儀を欠く。あ、こりゃさすがにダメな奴だし、嫌いだな。なるほど、ネガティブなプライド(傲慢)は対人関係のスキルと心持を指すようです。

    同じプライドという言葉でも、意味合いと役割が全然違う。
  3. むしろプライドは持つべきなのではないだろうか
    しかし、元のtwitterでよく見かける「プライドを捨てろ」という言葉は、文脈としては前者の"誇り"や"自尊心"というものを捨てろという意味合いをよく見かける。
    ここで想像力を働かせてみると、自尊心が高い=自分のやり方や考え方を信望している⇒(つまり)他人の意見に耳を傾けない、素直さが足りなくなって、結果的に成長が得られない。というフローを言っているに過ぎない。
     でもですよ、本当に多くの日本人が自尊心が低くて悩んでいるというのに、そこに追い打ちをかけるように、「自尊心を捨てろ」なんて、余りにも酷だと思うわけです。
    きっと自尊心が邪魔だった時代は、工場の組み立てラインのような没個性こそが生産性に直結する仕事環境だと思う。でも、この不確実な時代においては、個性を発揮しながら紆余曲折する波に乗る臨機応変さがないと辛い。そのためには、自意識としてのポジティブなプライドというものがあった方がいいに決まってる。
  4. プライドは育てるもの
    ポジティブなプライドは、はたまた自己肯定感と置き換えられもしよう。様々な選択や経験、努力などによって徐々に育まれていくアレだ。
    これからの時代は「好きなことじゃないと成果が出せない」ほどに、各人の想いがつまった仕事が重宝される時代へと深化を遂げていく。これからも意識的にプライドを育んて行くことで、もっともっと時代に必要とされる人間になるだろうし、人生そのものが楽しくなっていくに違いない。

 

人生にどん詰まった時に、視界が開けた話

1.25歳ぐらいの時、悶々としていた

2.自己啓発の本から宇宙の本からを乱読

3.人生に対する問「我々はなぜ生命を紡ぐのか」

4.本能としての「知的欲求」と人間原理

5.次世代に何を残せるか

 

1.25歳ぐらいの時、悶々としていた
当時の僕は外資系メーカーの研究員として働いていて、おそらくみんなが通る道であろう「会社と家の往復だけ」という生活に辟易として明るい未来なんて見えていなかった。シンプルに仕事で成果を出せていなかったことが大きく影響していたのだと思う。
もっと頑張らなきゃ、明るい人生にしなければ、そんな焦りが募るほどにますます気分は落ち込んでいた。

 

2.自己啓発の本から宇宙の本からを乱読
 そんな焦りや不安感の解消先として、先人たちの言葉に目を向け本を読み漁っていた。(研究的なアプローチとしても、仮設設定の前に現状はあくとしての論文サーベイなんかをやるので、まず書物に頼るのは基本だと思っていた。)その本の多くが自己啓発系のもので、「未来は自分次第で変わるんだ!」という期待感や高揚感に、落ち込んだ気持ちがやや上向きになったりを繰り返し日々を過ごしていた。自己啓発の本に嫌悪感を持つ人もいるが、僕はこの分野の「人は変われる、成長できる」という思想がとても好きだ。乱読を繰り返していると最終的には、「より良く生きましょう。貴方はそれができるはず」というメッセージにたどり着くという気付きがあった。

 

3.人生に対する問「我々はなぜ生命を紡ぐのか」
 だがしかし、また次の日になるといつもと同じ行動を繰り返し、そして日常の鬱々とした表情に戻っていってしまっていた。こうした鬱々とした日々を過ごすと、「このまま明るくもない未来を生きてその先に何があるのだろうか。今生命を終わらせる事を選んだほうが楽なのではないだろうか」などという思いが頭を過ぎり始めていた。しかしながら、今僕が死を選ぶことは、とても非難されるべきことだとも感じていた。「なぜ非難されるのだろう?」
その問は、僕たちが生命を紡いでいくことの意味とは何だろうか?なぜ生きねばならないのだろうか?ということへの解を持つことで、自分の中で確固とした生きる意味を持ちたいということだった。

4.本能としての「知的欲求」と人間原理
乱読の中、物理が好きということもあり、宇宙物理学や量子論に興味をもっていった。そこで、とある思想に辿りつく。それが「人間原理」だった。
僕たち人間も、地球上に自分だけだと自己というものを理解できない。貴方という存在がいて、僕がどういう人間かというものを理解できる。あなたのこういうとこが良くない、こういうところが好き、一緒に笑う、一緒に悲しむ。そうした反応の全てが、自己を理解してくれる。
 宇宙物理学の世界では、そうした思想が宇宙(世界の全ての事象、ものごと。万物のなりたち、関係性)に対しても同じ意味合いだと言っている。宇宙の存在は、僕たち人間が理解することによってようやくその存在が確認される。僕たちは宇宙の観測者として必要なのだ。宇宙を知るという責務と、僕たちのアハ体験のような知る喜び、本能としての知的欲求はまさにそのために備わっているのだと合点がいった。知的欲求とはなにも量子論相対性理論、はたまた超弦理論どのことだけを言っているわけではない。僕たちがまだ見たことがない世界を見聞きし体験すること、それら全てが宇宙の理を知るということのきっっかけになっているのだ。

5.次世代に何を残せるか

 しかし、現代科学においても人間の寿命は100年ほど。宇宙の歴史から振り返るとあまりにも短く、どんな超天才でもその一部始終を把握し理解することは困難なのだ。では、どうするか。
 アイザック・ニュートンが言うところの「私達は巨人の肩の上に乗っているに過ぎない」ということである。知の巨人の先人たちが積み重ねてきた知識や経験を踏まえ、その知を少しでも前に進めること。高名な学者だけではない、己の祖先や地域や関わる人々全てが積み重ねてきたもの。それらを少しでも前に進めることが私達の生きる意味なのだと思う。資本の蓄積や、経済の発展などは、そうした意味を生活の糧に繋げる一つの方法に過ぎない。
 生きていると様々な困難や壁にぶち当たり、投げ出してしまいそうなときもある。でも、そこの乗り越え方を発見できたならば、それらを次世代に伝え同じ轍を踏まないようにしてあげることで、人類としての宇宙の解明を進めてほしい。

僕が思ったまだ見ぬ世界。周囲の人間たちが主体的に生き、日々の幸福を噛みしめて生活ができるということ。そうした世界を見たくて、今日もまた僕は行動指針を定め、事項していくのである。