覚悟を決めるということへの恐怖感

突然だが、僕の自我は背中にいると思う。肩甲骨の上の当り、首の骨の始まりがあるくらいの位置に手のひら大のサイズでいつも僕の気分を評価している。「嫌だな。不安だな。」という時はその自我が鬱屈として言いようもない気持ち悪さを僕に伝えてくれる。一方で気分爽快、今日も頑張れるぞなんて日は、その部分に心地良い風が吹き続けているかのような清々しさに包まれる。

僕はこいつをウニヒピリと呼んでいる。

このウニヒピリさんが恐れおののく事態に遭遇した。現在参加しているFBのコミュニティ(オンラインで定例会や勉強会をしているとても前向きな集合体)にて、決断プレゼンをしましょう、という展開になったことだ。今後の自分が理想に近づくために、決断し覚悟を決め、そしてそれを表明する。


このコミュニティは参加者全員がより良い人生に向かうため、各々の目標達成を信条に掲げている。目標とは「どうしてもやりたいこと」なわけで、むしろ不達になどなり得ないという訳である。自分の心に素直になり、その心の真なる欲求を具現化すること。そしてその欲求を満たすためには、リソースを全集中する必要があり、これまでとこれからで時間やお金や能力や人間関係そうしたもろもろを整理し、目標達成に心血注ぐことが必要になってくる。

「だってそれやりたいことなんでしょ?」

本当に達成したい目標のためには、優先順位が低いものにリソースを使っていては達成できるものもできなくなってしまう。つまり、今までの私とは決別をしなければいけないのだ。

こうした現状との決別が非常に怖い、と思った。現状のまま死んでしまうのは嫌だと思っているにも関わらず、納得いっていない現状であるにも関わらず、その先がどうなるか分からないという心理的な便りどころを失ってしまうということに、とてつもない恐怖感を感じてしまった。こんなに納得いっていない現状であるが、明日も今日と似たような日を過ごせるだろうという安心感に頼りどころを感じてしまう。僕のウニヒピリさんも全力で警鐘を鳴らして、背中が重くだるく感じてしまう。


こんなにも強い現状維持の声、気持ちがめげ「やっぱり辞めた方が楽になるんじゃないか」との囁き声が聞こえる。それほど、このコミュニティの中でアイデンティティを確立し続けることにステータスもしくは、未来の自分への期待を感じているのだ。決断し、投げ出すなんてことをしたくないから、決断もしない。そんな思考が頭をよぎってしまった。

 

ふと、ここ数週間で僕が大事にしてきたある理想の光景を目に浮かべる。

”大勢の観衆の声、そこの主人公たる自分、タキシード姿、髪も揃えている。普段人前で緊張しがちな僕がゆったりと落ち着いてとある主張をする。観客席には最愛の妻、家族そして仲間たちがが喜びの表情を浮かべている。会場内のしんとした空気の中、光に照らし出された自分。ユニークな話題から会場の笑いを取りながら始める”

そうした理想的な僕は、些末なこの現状維持を選ぶだろうか。変化の先にしかその理想はあり得ないのは明確だ。僕の現状の意識を理想の自分だったらどうするかへ持っていく。

すると、僕のウニヒピリは落ち着きを取り戻し、そして冷静さを僕にもたらしてくれるようになる。

 

僕は過去に心が伴わない決断をし、失敗をしている。何か自分が変われるんじゃないかと思い、半泣きで「えいやー」と転職を決めたことだ。同じように僕のウニヒピリは警鐘をガンガン鳴らしていて、それはうすら寒くなるほどだったし、見せかけの努力をがんばったせいで1か月で体重が10キロほど落ちた。しかし、そこで感じるプレッシャーにいつまで経っても慣れることができず、感じたストレスのはけ口として砂糖に逃げいていた。砂糖をそのまま食べることで安堵しているほどの状態だった。気づいたら体重は+10キロほどに丸丸となっていた。
この出来事は今の僕につながっているので、人生稀有なめぐりあわせだなとは思うものの肯定的に捉えることはできている。

この時に強く感じた、覚悟を決めるという行為そしてそれを決めた自分を裏切ってしまったことへの後悔。現状の僕は、この体験から逃れるべく覚悟を決めるという事が怖くなってしまっていたのだ。

 

しかし、だ。

 

今は状況が全く違う。現状の自分を変えたいという想いは同じかもしれないけれど、心から理想の自分を求めている。そこに近づくためには、変化を起こさないといけない。

この変化に向かって、覚悟を決めよう、そして決断プレゼンへ臨もう。
理想の僕の立ち位置からは、ウニヒピリも僕のことを応援してくれている。