人生にどん詰まった時に、視界が開けた話

1.25歳ぐらいの時、悶々としていた

2.自己啓発の本から宇宙の本からを乱読

3.人生に対する問「我々はなぜ生命を紡ぐのか」

4.本能としての「知的欲求」と人間原理

5.次世代に何を残せるか

 

1.25歳ぐらいの時、悶々としていた
当時の僕は外資系メーカーの研究員として働いていて、おそらくみんなが通る道であろう「会社と家の往復だけ」という生活に辟易として明るい未来なんて見えていなかった。シンプルに仕事で成果を出せていなかったことが大きく影響していたのだと思う。
もっと頑張らなきゃ、明るい人生にしなければ、そんな焦りが募るほどにますます気分は落ち込んでいた。

 

2.自己啓発の本から宇宙の本からを乱読
 そんな焦りや不安感の解消先として、先人たちの言葉に目を向け本を読み漁っていた。(研究的なアプローチとしても、仮設設定の前に現状はあくとしての論文サーベイなんかをやるので、まず書物に頼るのは基本だと思っていた。)その本の多くが自己啓発系のもので、「未来は自分次第で変わるんだ!」という期待感や高揚感に、落ち込んだ気持ちがやや上向きになったりを繰り返し日々を過ごしていた。自己啓発の本に嫌悪感を持つ人もいるが、僕はこの分野の「人は変われる、成長できる」という思想がとても好きだ。乱読を繰り返していると最終的には、「より良く生きましょう。貴方はそれができるはず」というメッセージにたどり着くという気付きがあった。

 

3.人生に対する問「我々はなぜ生命を紡ぐのか」
 だがしかし、また次の日になるといつもと同じ行動を繰り返し、そして日常の鬱々とした表情に戻っていってしまっていた。こうした鬱々とした日々を過ごすと、「このまま明るくもない未来を生きてその先に何があるのだろうか。今生命を終わらせる事を選んだほうが楽なのではないだろうか」などという思いが頭を過ぎり始めていた。しかしながら、今僕が死を選ぶことは、とても非難されるべきことだとも感じていた。「なぜ非難されるのだろう?」
その問は、僕たちが生命を紡いでいくことの意味とは何だろうか?なぜ生きねばならないのだろうか?ということへの解を持つことで、自分の中で確固とした生きる意味を持ちたいということだった。

4.本能としての「知的欲求」と人間原理
乱読の中、物理が好きということもあり、宇宙物理学や量子論に興味をもっていった。そこで、とある思想に辿りつく。それが「人間原理」だった。
僕たち人間も、地球上に自分だけだと自己というものを理解できない。貴方という存在がいて、僕がどういう人間かというものを理解できる。あなたのこういうとこが良くない、こういうところが好き、一緒に笑う、一緒に悲しむ。そうした反応の全てが、自己を理解してくれる。
 宇宙物理学の世界では、そうした思想が宇宙(世界の全ての事象、ものごと。万物のなりたち、関係性)に対しても同じ意味合いだと言っている。宇宙の存在は、僕たち人間が理解することによってようやくその存在が確認される。僕たちは宇宙の観測者として必要なのだ。宇宙を知るという責務と、僕たちのアハ体験のような知る喜び、本能としての知的欲求はまさにそのために備わっているのだと合点がいった。知的欲求とはなにも量子論相対性理論、はたまた超弦理論どのことだけを言っているわけではない。僕たちがまだ見たことがない世界を見聞きし体験すること、それら全てが宇宙の理を知るということのきっっかけになっているのだ。

5.次世代に何を残せるか

 しかし、現代科学においても人間の寿命は100年ほど。宇宙の歴史から振り返るとあまりにも短く、どんな超天才でもその一部始終を把握し理解することは困難なのだ。では、どうするか。
 アイザック・ニュートンが言うところの「私達は巨人の肩の上に乗っているに過ぎない」ということである。知の巨人の先人たちが積み重ねてきた知識や経験を踏まえ、その知を少しでも前に進めること。高名な学者だけではない、己の祖先や地域や関わる人々全てが積み重ねてきたもの。それらを少しでも前に進めることが私達の生きる意味なのだと思う。資本の蓄積や、経済の発展などは、そうした意味を生活の糧に繋げる一つの方法に過ぎない。
 生きていると様々な困難や壁にぶち当たり、投げ出してしまいそうなときもある。でも、そこの乗り越え方を発見できたならば、それらを次世代に伝え同じ轍を踏まないようにしてあげることで、人類としての宇宙の解明を進めてほしい。

僕が思ったまだ見ぬ世界。周囲の人間たちが主体的に生き、日々の幸福を噛みしめて生活ができるということ。そうした世界を見たくて、今日もまた僕は行動指針を定め、事項していくのである。